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東京高等裁判所 平成6年(行ケ)30号 判決

東京都新宿区市谷加賀町1丁目1番1号

原告

大日本印刷株式会社

同代表者代表取締役

北島義俊

同訴訟代理人弁護士

赤尾直人

東京都千代田区霞が関3丁目4番3号

被告

特許庁長官 高島章

同指定代理人

須磨光夫

西義之

市川信郷

関口博

主文

特許庁が平成3年審判第22855号事件について平成5年12月2日にした審決を取り消す。

訴訟費用は被告の負担とする。

事実

第1  当事者の求めた裁判

1  原告

主文と同旨の判決

2  被告

「原告の請求を棄却する。訴訟費用は原告の負担とする。」との判決

第2  請求の原因

1  特許庁における手続の経緯

原告は、昭和59年9月29日、名称を「微細エッチング加工用素材」とする発明(以下「本願発明」という。)につき特許出願(特願昭59-204775号)したが、平成3年9月27日に拒絶査定を受けたので、同年11月28日に審判を請求した。特許庁は、この請求を平成3年審判第22855号事件として審理し、平成4年7月20日に出願公告(特公平4-43980号)したが、特許異議の申立てがあり、平成5年12月2日、「本件審判の請求は、成り立たない。」との審決をなし、その謄本は、平成6年1月19日原告に送達された。

2  本願発明の要旨

冷間圧延によって製造される板厚0.020~0.40mmの42%Ni-Fe合金または36%Ni-Fe合金よりなるエッチング加工用のニッケル-鉄合金素材において、該素材中の炭素含有量が0.01%以下であり、且つJIS G 0555によって規定される断面清浄度が0.017%以下であることを特徴とする微細エッチング加工用素材。

3  審決の理由の要点

(1)  本願発明の要旨は前項記載のとおりである。

(2)  特開昭59-27435号公報(昭和59年2月13日出願公開。以下「引用例1」という。)には、次の事項が記載されている。

鉄-ニッケル系合金を主成分とするシャドウマスクの曲面成形性を向上し変形を防止した高精度のシャドウマスクを有するカラー受像管を得ることを目的として、

イ.Niを約36%、Cを0.009%含有する36Ni-Fe合金を素材とする、板厚0.2mmのシャドウマスクについて、それぞれ、1000℃、1100℃、1200℃で10分間、真空中で焼鈍を行ったところ、断面のみならず表面の結晶粒もよく成長したこと、

ロ.表面の結晶粒の成長を阻害していると考えられる表面の不純物について分析したところ、真空焼鈍によって、Cが0.009%から0.007%に減少したのを含めて、鉄-ニッケル以外の不純物は概ね減少しており、特にMnは約1/10に、P及びSは検出不能なレベルにまで低下し、これは真空中で焼鈍することにより、蒸気圧の高いMn、P及びS等が結晶粒界より蒸発して結晶粒の成長を容易にしたため、また大気中の焼鈍で生じがちなこれら不純物の酸化物等が表面層内に形成されにくいためと考えられること、

ハ.焼鈍工程はシャドウマスクの多数の開孔を穿設する前に行ってもよいこと。

(3)  そこで、本願発明(前者)と引用例1記載の発明(後者)とを対比すると、両者は、板厚0.020~0.40mm(後者の「板厚0.2mm」がこれに相当)の42%Ni-Fe合金または36%Ni-Fe合金(後者の「36Ni-Fe合金」がこれに相当)よりなるニッケル-鉄合金素材において、該素材中の炭素含有量が0.01%以下(後者のC含有量0.009%がこれに相当)であるニッケル-鉄合金素材である点で一致し、次の点で相違する。

〈1〉 前者が、当該素材について、冷間圧延によって製造される、と限定しているのに対し、後者には、素材の製造方法については記載がない点(以下「相違点1」という。)

〈2〉 前者の素材が微細エッチング加工用であるのに対し、後者の素材はシャドウマスク用である点(以下「相違点2」という。)

〈3〉 前者が、JIS G 0555によって規定される断面清浄度が0.017%以下という限定を有するのに対し、後者にはそのような限定がない点(以下(相違点3」という。)

(4)  相違点について検討する。

〈1〉 相違点1について

National Technical Report第28巻第6号(昭和57年12月18日松下電器産業株式会社発行)、第85頁ないし第95頁(以下「引用例2」という。)には、“シャドウマスク用材料新アルミキルド鋼”という表題の技術報告が記載されており、「従来のテレビ用カラー受像管のシャドウマスクに使用してきた低炭素リムド鋼に代わる材料として種々検討した結果、極低炭素アルミキルド鋼の開発に成功」(第85頁、“要旨”、第3段参照)したとの記載とともに、その第88頁の第4図、“シャドウマスク製造工程のフローチャート”には、連続鋳造されたキルド鋼のスラブ、あるいは造塊・分塊されたリムド鋼のスラブは、熱間圧延工程を経た後、冷間圧延によって冷延コイルとされ、続いて冷間圧延の一種である調質圧延によって薄板コイルとされることが記載されている。

確かに、引用例1のシャドウマスク用素材は、ニッケル-鉄合金であって、引用例2に記載されたようなリムド鋼あるいはキルド鋼ではないが、両者ともにシャドウマスク用素材であることには変わりはなく、しかも、スラブから薄板コイルにするにあたって、ニッケル-鉄合金に対してはリムド鋼あるいはキルド鋼とは異なる加工方法を採用しなければならないという特段の事情も存在しない以上、引用例1のシャドウマスク用のニッケル-鉄合金素材も冷間圧延によって製造されることは当業者には明らかである。

してみれば、相違点1は実質的な相違点ではない。

〈2〉 相違点2について

シャドウマスクの穿孔が微細エッチングによって行われることは本願出願の時点で周知である。

そうであってみれば、引用例1のシャドウマスク用素材も、真空焼鈍される前あるいは後(上記摘記ハ参照)に、微細エッチングにより穿孔されることは当業者には自明であり、他方、本願発明のエッチング加工用素材も、「本発明は微細エッチング加工用素材に係り、更に詳しくは高精度シャドウマスクなどの微細エッチング加工用素材に関する」(本願公告公報第1欄11行ないし13行)とあるように、その具体的な用途の一つとしてシャドウマスクを念頭に置くものであるから、本願発明の微細エッチング加工用素材の概念の中に引用例1のシャドウマスク用素材が含まれることは明白である。

よって、相違点2も実質的な相違点とはいえない。

〈3〉 相違点3について

(a) “JIS G 0555によって規定される断面清浄度が0.017%以下”という限定は、本願明細書の発明の詳細な説明によれば、“第2表から明らかなように断面清浄度を0.017%以下にすると10mm×10mmの単位面積あたりの10μm以上の非金属介在物個数は10個以下に減少せしめられる。この程度の断面清浄度であれば、非金属介在物の存在が微細加工を阻害することは実質的にない。”(本願公告公報第5欄10行ないし15行)とあるように、単位面積あたりの10μm以上の介在物の個数を10個以下に限定するものであり、ここで、“微細加工”とはエッチングによる微細加工を意味することは本願明細書全体の記載から明らかである。

ところで、引用例2には、“原板エッチング工程で要求される事項”の一つとして“介在物が少ないこと”が挙げられ、次のような記載がある。

「4)介在物が少ないこと

原板エッチング工程では、シャドウマスク用材料を、現像、バーニング処理後、塩化第二鉄液のスプレー噴射によってエッチングされる。このとき、介在物が穿孔部にあると、塩化第二鉄に対する腐食速度が地鉄のフェライト粒と異なることになり、原板エッチング後の孔の形状が第5図に示すようにひずんで致命的な欠陥となる。一般に、介在物は腐食されにくく、このことは原板エッチング後の孔形状のピンホールあるいは目詰まりという形で現れる。この介在物には大きく分けて、酸化物系および硫化物系の非金属介在物と炭化物(主にFe3C)があり、その性状は鋼板銑鋼工程での鋼塊および鋼を製造する段階とスリットコイルの焼鈍で決まる。たとえば、炭素が0.01%より多いと炭化物の生成量が増え、しかも比較的結晶粒が粗大化するため、原板エッチングでの穿孔時にエッチングされにくい炭化物が穿孔後の孔の周囲に凸状に残存するが、このことは孔の寸法精度が厳しく要求されるシャドウマスクにとっては重大な品質欠陥になる。また、硫黄も少なくした方が望ましく、0.025%を越えるとMnS系介在物が増えて穿孔品質が低下する。いずれにしても、介在物の少ない材料が必須である。」(第88頁右欄31行ないし第89頁左欄2行)。

(b) すなわち、エッチング穿孔されるシャドウマスク素材にあっては介在物の少ないことが求められるのであって、このような要請は母材と介在物とのエッチングのされやすさの差異に起因するものであるから、引用例1に記載されたようなニッケル-鉄合金をシャドウマスク用素材とする場合においても介在物が少ない方が望ましいことは当業者の容易に推測し得るところである。

そして、存在する介在物の量の上限を本願発明におけるがごとくに単位面積あたり10個以下、すなわち、清浄度0.017%以下と限定することは、許容し得る穿孔品質に応じて当業者の適宜設定可能な事項にすぎない。

加えて、「非金属介在物によるエッチング不良もみられない」(本願公告公報第7欄9行ないし第8欄1行)という本願発明における効果も、介在物とエッチングによる穿孔品質との関係を述べた引用例2の上記摘記箇所の記載から当然に予測される範囲である。

(5)  以上のとおりであるから、本願発明は、引用例1及び2に記載された発明に基づいて当業者が容易に発明をすることができたものであるので、特許法29条2項の規定により特許を受けることができない。

4  審決を取り消すべき事由

審決の理由の要点(1)、(2)は認める。同(3)につき、審決摘示の一致点及び相違点があること自体は認める(但し、本願発明と引用例1記載の発明において、ニッケル-鉄合金素材中の炭素含有量を0.01%以下にしていることの技術的意義は一致せず、審決摘示の相違点に限定されるわけではない。)。同(4)〈1〉、〈2〉は認める。同(4)〈3〉(a)は認めるが、同(4)〈3〉(b)は争う。同(5)は争う。

審決は、本願発明と引用例1記載の発明における炭素含有量の技術的意義が相違し、引用例1には、本願発明において炭素含有量を0.01%以下と限定していることの技術的意義につき開示又は示唆するところがないことを看過して、本願発明の進歩性の判断を誤り(取消事由1)、かつ、相違点3についての判断も誤った(取消事由2)ものであるから、違法として取り消されるべきである。

(1)  取消事由1

数値限定発明の進歩性は、単に数値限定自体が知られているか否かの点だけではなく、いかなる技術的背景のもとに数値限定に至ったのか、すなわち、発明の目的とする作用効果と、これを支配する技術的要因との間で、数値限定がどのような技術的課題を解決し、かつ当該解決に創作性が存在するか否かの点に着目して判断されなければならない。

本願発明における「該素材中の炭素含有量が0.01%以下であり、」という構成(以下「構成B」という。)は、〈1〉エッチング時間の長期化に伴う、フォトレジストと素材との密着力の低下及びエッチング製品の加工部の直線性や真円度の損傷、〈2〉エッチング形成断面のアラビ化(がさつきの発生)という従来技術の欠点を克服し、エッチング加工の速度の改善に寄与し、ひいてはエッチングによって形成される製品の加工部の直線性や真円度が損なわれることを防止すると共に、アラビを解消し、これによって、炭化物系介在物の存在による不良を解消することができるものである。

これに対し、引用例1記載の発明は、「鉄-ニッケル系合金を主成分とするシャドウマスクの曲面成形性を向上し変形を防止した高精度のシャドウマスクを有するカラー受像管を得ることを目的」(甲第3号証第2頁左下欄17行ないし20行)とするものであって、炭素等の含有率の低下は、シャドウマスクの「曲面成形性の向上」及び「変形の防止」を主眼とするものである。

引用例1には、エッチングによって形成される製品の加工部の直線性や真円度が損なわれることを防止し、アラビを解消することを念頭において、42%Ni-Fe合金又は36%Ni-Fe合金からなるエッチング加工用のニッケル-鉄合金素材における炭素含有量を0.01%以下に設定するという一般的基準は開示又は示唆されていない。

したがって、引用例1から、上記〈1〉、〈2〉の従来技術の欠点を克服すべく炭素含有量を0.01%以下に設定することを想到することは、当業者といえども到底不可能である。

そうとすると、本願発明と引用例1記載の発明における合金素材中の炭素含有量が0.01%以下である点で一致していることをもって、本願発明の進歩性を否定する根拠の一つとすることはできないものというべきであって、審決の進歩性の判断は誤りである。

(2)  取消事由2

本願発明において、「JIS G 0555によって規定される断面清浄度が0.017%以下である」という構成(以下「構成C」という。)を採択したのは、10mm×10mmの単位面積当たりの10μm以上の非金属介在物の個数が10個以下である場合には、非金属介在物の存在が微細加工を阻害することがないという、これまでの知見の積み重ねを前提として、JIS G 0555規格に基づいた一般的基準を確立せんがためである。

しかるに、引用例2には、穿孔されるシャドウマスク用素材において、介在物が少ないことが必要であるという一般的な記載が存在するにすぎず、構成Cのような基準によって10μm以上の非金属介在物の存在による微細加工の阻害を防止する点については何ら記載されていない。

したがって、断面清浄度を0.017%以下と限定することは、当業者の適宜設定可能な事項であるとした審決の判断は誤りである。

第3  請求の原因に対する認否及び反論

1  請求の原因1ないし3は認める。同4は争う。審決の判断は正当であって、原告主張の誤りはない。

2  反論

(1)  取消事由1について

エッチングは客観的な化学現象であるから、何を念頭において炭素含有量を設定したかによって、合金素材中の炭素のエッチングに対する挙動に違いの生じるはずがない。すなわち、本願発明に係る合金素材が、炭素含有量が0.01%以下とされていることによって、早いエッチング速度を示し、結果として、製品の加工部の直線性や真円度が損なわれず、アラビが解消されるのであれば、同じく炭素含有量が0.01%以下である引用例1記載の合金素材も、やはり早いエッチング速度を示し、結果として、製品の加工部の直線性や真円度が損なわれず、アラビが解消されていることは明らかであって、そこに、その炭素含有量がどのようなことを念頭において設定されたものであるかが影響を及ぼす余地はない。

炭素含有量の制限と、アラビの解消等のエッチング加工上の作用効果との関係が、たとえ原告主張のように新たな発見であるとしても、その発見によって、新たな組成の合金素材がもたらされたわけでもなく、合金素材の用途が拡大したわけでもない。

結局、炭素含有量が0.01%以下の36%Ni-Fe合金よりなるシャドウマスク用合金素材は、本願出願前すでに引用例1に示されるように公知であり、構成要件の点でも、作用効果の点でも本願発明とは何ら差異がないのであるから、進歩性の議論が入り込む余地はないものというべきである。

(2)  取消事由2について

エッチング穿孔されるシャドウマスク素材において、介在物が少ないことは、微細加工のエッチングにおいて本来要請されている公知の技術的事項である。

したがって、10mm×10mmの単位面積当たりの10μm以上の非金属介在物の個数が10個以下、すなわち、断面清浄度を0.017%以下と限定するという構成Cは、介在物が少ない方がよいということが公知の技術的事項であった状況下において、実験によって得られた判断基準であり、しかも、実験自体の方向性は決まっていて格別創作性の存在しないものであるから、許容し得る穿孔品質に応じて当業者の適宜設定可能な事項にすぎないものというべきである。

第4  証拠関係

証拠関係は、記録中の書証目録記載のとおりであって、書証の成立はいずれも当事者間に争いがない。

理由

1  請求の原因1(特許庁における手続の経緯)、2(本願発明の要旨)、3(審決の理由の要点)については、当事者間に争いがない。

そして、審決の理由の要点のうち、引用例1及び2の記載事項、本願発明と引用例1記載の発明との一致点及び相違点の認定自体、相違点1及び2の判断についても、当事者間に争いがない(但し、一致点及び相違点の認定に関連して、原告は、本願発明と引用例1記載の発明において、ニッケル-鉄合金素材中の炭素含有量を0.01%以下にしていることの技術的意義は一致せず、審決摘示の相違点に限定されるわけではない、としている。)。

2  本願発明の概要

甲第2号証(本願の出願公告公報)によれば、本願発明は、「微細エッチング加工用素材に係り、更に詳しくは高精細シャドウマスクなどの微細エッチング加工用素材に関する。」(同号証第1欄11行ないし13行)ものであり、「リードフレームにおける100~160ピンといった多ピン製品、シャドウマスクにおける0.2~0.3mmピッチの高精細マスクなどの微細加工製品については次のようないくつかの技術的問題点があった。第一にピッチの細かいリードフレームやシャドウマスク、その他電子部品をエッチング加工すると、エッチング時間が長くなることから、フォトレジストと素材の密着力が低下し、エッチングによって形成される製品の加工部の直線性や真円度がそこなわれるという問題があった。第二にエッチングによって形成される断面がアラビと呼ばれる状態になり、ガサツキが生じてしまうという問題があった。こうしたアラビは例えばシャドウマスクにおいて微妙にムラに影響し、マスク全体の品位が低下してしまうことになる。第三にピン数の少ないリードフレームや民生用シャドウマスクでは実用上問題のなかった大きさの介在物が多ピンのリードフレーム、高精細シャドウマスクでは問題となり、エッチング工程での歩留りが低下するという問題があった。」(同第2欄2行ないし23行)という知見のもとに、「上記の従来の欠点を解消した微細エッチング加工用素材を提供すること」(同第2欄25行ないし27行)を目的として、前示要旨のとおりの構成を採択したものであり、炭素含有量を0.01%以下にすることにより、「エッチング速度は早められると共にアラビが解消される」(同第3欄27行、28行)、「炭化物系介在物による不良が実質的に解消される」(同第4欄6行)という作用効果、JIS G 0555によって限定される断面清浄度を0.017%以下にすることにより、「素材中の非金属介在物の存在が実質的に微細加工の障害とならない程度に迄、素材中の非金属介在物が減少せしめられる」(同第4欄26行ないし28行)という作用効果をそれぞれ奏するものであることが認められる。

3  取消事由の検討

(1)  まず始めに、取消事由2について検討する。

本願発明における「JIS G 0555によって規定される断面清浄度が0.017%以下」という限定は、本願明細書の発明の詳細な説明によれば、10mm×10mmの単位面積当たりの10μm以上の介在物の個数を10個以下に限定するものであること、引用例2には、原板エッチング工程で要求される事項の一つとして、「介在物が少ないこと」が挙げられており、引用例2の第88頁右欄31行ないし第89頁左欄2行に審決摘示の記載があることについては、当事者間に争いがない。

引用例2の上記記載によれば、エッチング穿孔されるシャドウマスク用素材において非金属介在物が少ないことは、微細加工のエッチングにおいて要請されている公知の技術的事項であると認められるから、引用例1に記載のニッケル-鉄合金をシャドウマスク用素材とする場合においても、非金属介在物が少ない方が望ましいことは当業者の容易に推測し得るところであると認められる。

ところで、非金属介在物が少ない方が望ましいといっても、自ずとその限界が存在することは明らかであって、どの程度まで非金属介在物の存在が許容できるかということになるが、その判断基準は、本願明細書に「この程度の断面清浄度であれば、非金属介在物の存在が微細加工を阻害することは実質的にない。」(甲第2号証第5欄13行ないし15行)と記載されているように、微細加工を実質的に阻害するか否かを基準としてなされるものである以上、エッチングによって穿孔される孔の大きさや、求められる穿孔精度に依存するものであることは明らかである。

そうすると、本願発明における上記数値限定も、求められる穿孔精度に応じて、すなわち、許容し得る穿孔品質に応じて適宜定められるものにすぎないものというべきである。

そして、本願発明における構成Cによる効果、すなわち、「非金属介在物によるエッチング不良もみられ(ない)」(甲第2号証第7欄9行ないし第8欄1行)という効果も、引用例2の上記審決摘示の記載から予測できる程度のものであって、格別のものとは認め難い。

以上のとおりであって、相違点3についての審決の判断に誤りはなく、取消事由2は理由がない。

(2)  次に、取消事由1について検討する。

〈1〉(a)  前記2項に認定のとおり、本願発明は、ピッチの細かいリードフレームやシャドウマスク、その他電子製品をエッチング加工すると、エッチング時間が長くなることから、フォトレジストと素材の密着力が低下し、エッチングによって形成される製品の加工部の直線性や真円度が損なわれたり、エッチングによって形成される断面がアラビ状態になり、例えばシャドウマスクにおいては微妙にムラに影響し、マスク全体の品位が低下してしまうといった問題があったという知見のもとに、ニッケル-鉄合金素材中の炭素含有量を0.01%以下と限定したものであって、これにより、エッチング速度が早められると共にアラビが解消され、さらに、炭化物系介在物による不良が実質的に解消されるという作用効果が得られるものである。

(b)  次に、引用例1記載の発明において、ニッケル-鉄合金素材中の炭素含有量を0.009%としていることの技術的意義について検討する。

引用例1(甲第3号証)の特許請求の範囲の項には、「1) パネル内面に被着された蛍光体と前記蛍光体に近接対向して配置され多数の開孔を有するシャドウマスクとを少くとも備えたカラー受像管において、前記シャドウマスクは鉄及びニッケルを主成分とする薄板からなり、JIS G0551に規定する結晶粒度が前記薄板の内部及び表面ともに7.0以下であることを特徴とするカラー受像管。2) 前記シャドウマスクが36%ニッケル-鉄合金からなることを特徴とする特許請求の範囲第1項記載のカラー受像管。」と記載され、発明の詳細な説明の項には、「本発明はカラー受像管に係り、特にそのシャドウマスクに関するものである。」(第1頁左下欄16行、17行)、「シャドウマスクの素材自体に熱膨張係数の小さいもの、例えば鉄-ニッケル系合金を用いる例が特公昭42-25446号公報、特開昭50-58977号公報及び特開昭50-68650号公報で提案されているが未だ実用条件を満足するには到っていない。この原因の一つとして鉄-ニッケル合金からなる金属板の加工の困難さが挙げられる。即ちq値を許容範囲内とするためにはシャドウマスクの曲面は高精度が要求され、1000mmの曲率半径(R)に対し許容公差は±5mmと非常に厳しいものである。しかし乍ら鉄-ニッケル系合金は従来の鉄を主成分とするものに比べて焼鈍にかなりの弾性が残るためプレス等による球面成形性が劣る欠点を有している。」(第2頁左上欄17行ないし右上欄10行)、「本発明は鉄-ニッケル系合金を主成分とするシャドウマスクの曲面成形性を向上し変形を防止した高精度のシャドウマスクを有するカラー受像管を得ることを目的とする。」(第2頁左下欄17行ないし20行)、「本発明によれば、鉄-ニッケル系合金を主成分とするシャドウマスクの曲面成形性を向上し変形を防止した高精度の曲面品位とすることができ、色純度の問題のないカラー受像管を得ることができる。」(第4頁左上欄3行ないし7行)と記載されていることが認められる。また、引用例1に、鉄-ニッケル系合金を主成分とするシャドウマスクの曲面成形性を向上し変形を防止した高精度のシャドウマスクを有するカラー受像管を得ることを目的として、イ.Niを約36%、Cを0.009%含有する36Ni-Fe合金を素材とする、板厚0.2mmのシャドウマスクについて、それぞれ、1000℃、1100℃、1200℃で10分間、真空中で焼鈍を行ったところ、断面のみならず表面の結晶粒もよく成長したこと、ロ.表面の結晶粒の成長を阻害していると考えられる表面の不純物について分析したところ、真空焼鈍によって、Cが0.009%から0.007%に減少したのを含めて、鉄-ニッケル以外の不純物は概ね減少しており、特にMnは約1/10に、P及びSは検出不能なレベルにまで低下し、これは真空中で焼鈍することにより、蒸気圧の高いMn、P及びS等が結晶粒界より蒸発して結晶粒の成長を容易にしたため、また大気中の焼鈍で生じがちなこれら不純物の酸化物等が表面層内に形成されにくいためと考えられること、ハ.焼鈍工程はシャドウマスクの多数の開孔を穿設する前に行ってもよいこと、が記載されていることは当事者間に争いがない。

引用例1の上記記載によれば、引用例1記載の発明における合金素材は、曲面成形性を向上し変形を防止した高精度のシャドウマスクを構成するためのものであって、その合金組成として36%Ni-Fe合金における炭素含有量を0.009%としたものと認められる。

しかし、引用例1には、エッチング速度を早める共にアラビを解消することを意図して、上記の炭素含有量に設定したものであるとの開示はもとより示唆するところもない。

(c)  ところで、発明の進歩性は、当該発明の目的、構成及び作用効果の予測性に基づいて判断されるべきであるから、当該発明における数値限定を伴う構成が容易に想到し得るものであるといえるためには、単に、公知技術として当該構成自体が開示又は示唆されているというだけでは足りず、当該構成の技術的意義、すなわち目的、作用効果が周知であるとか、あるいは、公知技術における当該構成の技術的意義が開示又は示唆されていることが必要であると解するのが相当である。

本件についてみると、上記のとおり、本願発明は、合金素材中の炭素含有量がエッチング時間やアラビ化の程度等と関連していることを見出し、炭素含有量を0.01%以下に限定することにより、エッチング速度を早めると共にアラビを解消し、さらに、炭化物系介在物による不良を実質的に解消するという作用効果を奏するものであるところ、合金素材中の炭素含有量とエッチング時間やアラビ化の程度等とが関連することが、当業者に周知であることを認めるべき証拠はない。また、引用例1には、曲面成形性を向上し変形を防止した高精度のシャドウマスクを構成するための合金組成として、36%Ni-Fe合金における炭素含有量を0.009%としたものが記載されているだけであって、エッチング速度を早める共にアラビを解消することを意図して、上記の炭素含有量に設定したものであるとの開示はもとより示唆するところもないことは、上記のとおりである。

そうすると、引用例1には、炭素含有量が0.01%以下である合金素材が示されているからといって、このことから、エッチング速度を早めて、製品の加工部の直線性や真円度が損なわれることを防止すると共に、アラビを解消するという課題の解決のために、炭素含有量を0.01%以下に限定する構成を採択することが容易に想到し得る程度のものと認めることはできない。

〈2〉  被告は、エッチングは客観的な化学現象であるから、何を念頭において炭素含有量を設定したかによって、合金素材中の炭素のエッチングに対する挙動に違いの生じるはずがないし、炭素含有量の制限と、アラビの解消等のエッチング加工上の作用効果との関係が、たとえ原告主張のように新たな発見であるとしても、その発見によって、新たな組成の合金素材がもたらされたわけでもなく、合金素材の用途が拡大したわけでもないのであって、引用例1に記載の炭素含有量が0.01%以下の36%Ni-Fe合金よりなるシャドウマスク用合金素材は、構成要件の点でも、作用効果の点でも本願発明とは何ら差異がないのであるから、進歩性の議論が入り込む余地はない旨主張する。

確かに、引用例1に記載のニッケル-鉄合金素材も炭素含有量が0.01%以下のものであるから、本願発明の合金素材と同様に、早いエッチング速度を示し、結果として、製品の加工部の直線性や真円度が損なわれず、アラビが解消されるという作用効果を奏するものと認められるが、上記作用効果は、引用例1に開示又は示唆されているものではない。

進歩性の判断において問題となるのは、合金素材中の炭素含有量と上記作用効果との関連性が周知あるいは公知の事項として知られていたか否かということであって、この点が知られていなければ、炭素含有量をどの程度に設定すべきであるかということの着想が得られないはずであり、単に構成や作用効果の点で差異がないからといって、進歩性の議論が入り込む余地がないとはいえず、被告の上記主張は採用できない。

〈3〉  以上のとおり、引用例1から、エッチング速度を早めると共にアラビを解消するという課題の解決のために、炭素含有量を0.01%以下に限定することが容易に想到し得ることとは認められず、したがって、この点を看過し、本願発明と引用例1記載の発明におけるニッケル-鉄合金素材中の炭素含有量が0.01%以下である点で一致していることをもって、本願発明の進歩性を否定する根拠の一つとした審決の進歩性の判断は誤っているものといわざるを得ず、取消事由1は理由がある。

4  よって、原告の本訴請求は理由があるから認容し、訴訟費用の負担について行政事件訴訟法7条、民事訴訟法89条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 伊藤博 裁判官 濵崎浩一 裁判官 市川正巳)

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